21世紀特別企画


 福島医大神経精神医学講座教授 丹羽真一 先生からの寄稿

■ 磐梯山と野口英世(H13.1.1 up)
■ 安寿と厨子王も詣でた小倉寺の千手観音(H13.1.9 up)
■ 福島の女性(ひと):高村智恵子の夢(ゆめ)と病気(やまい)(H18.1.12 up)

<HP管理者より一言>
 福島医大神経精神医学講座の丹羽教授は、平成4年に東京大学より福島医大に着任されました。ご専門の精神医学・心身医学のみならず、福島県の歴史にも大変造詣が深い先生です。今回取り上げた作品のほかにも、精神科医の視点から多数の作品を書かれています。
 今回、当院ホームページへの寄稿を快く引き受けていただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。丹羽先生のご許可が得られれば、今後も先生の作品を当院のホームページでご紹介したいと考えています。


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磐梯山と野口英世

 今回のテーマを私は福島の七不思議とでも言うべきものの一つと考えています。 それは福島が誇る郷土の偉人である野口英世博士についてのことです。

 野口英世博士(以下、野口英世と略)は明治9年に耶麻郡翁島村三城潟に生まれました。 野口英世(当時は清作という名前であった)がまだ1歳半の頃、誤って囲炉裏に転落して左手に火傷を負い、そのために左手指がくっついた状態であったものを、会津若松の渡部医師に治療してもらったことが将来医学の道を志す契機となったことは、皆さん御承知のことです。 野口清作は猪苗代高等小学校へと進み、更に自分の治療をしてくれた会津若松の渡部医師の会陽医院に居留しながら勉強して上京し、医術開業試験に合格後に渡米することになるわけです。

 話は変わりますが、2000年は日本の火山活動が活発化した年でした。 有珠山に始まり、三宅島へとつながった火山活動は、他のいくつかの火山をも刺激したようです。 福島の磐梯山も火山性微動が増加して臨時火山情報が出されるようになりました。 磐梯山は過去に何回も噴火(爆発)をおこしていますが、最近のものは明治21年の大水蒸気爆発です。 そのために当時存在していた二つのピークのうち小磐梯山の山頂は吹き飛ばされて形を変え、吹き飛ばされた岩石・土砂が裏磐梯の長瀬川を堰止めたために多くの美しい沼をつくったわけです。 これも皆さん御承知のところです。

 ここからが私が福島の七不思議の一つと考えていることなのですが、この磐梯山の噴火の時に野口英世は実は11歳になっており、爆発した磐梯山のすぐ麓に生活していたのです。 野口英世は間近に磐梯山の大爆発を見ていたはずなのです。 野口英世の伝記を読まれた方は多い、というよりほとんどの人は小さい頃に野口英世の伝記を読んでいると思われます。 そのどれも野口英世が磐梯山の大爆発を体験したことに触れていません。 少し前に有名になった野口英世を扱った小説「遠き落日」にも、このことは触れられていません。 これほどに有名な野口英世と、これもまた知らぬ人は居ない磐梯山の大爆発との関連について、全く触れられていないのは福島の七不思議の一つであると私は考えているわけです。

 野口英世が磐梯山の爆発のときにどうしていたのだろうと考えた私はいろいろと資料を当たってみました。 すると、ちゃんと資料はあるのです。 野口英世の姉イヌが語った思い出をまとめた本が出版されています。 沼田史雄著「姉の語る野口英世の生立」(野口英世記念会出版)がそれです。 それによると、「磐梯山噴火の日、朝から野口英世は弟清三を連れて猪苗代湖へ注ぐ高橋川という小川に魚釣りに出かけていた」ようです。 そこへ大爆発です。 野口英世は弟を背負って急いで家に戻ってきたところを姉が見ていたようです。 姉の語る所によると、爆発のためワッサワッサと揺れてひっくり返りそうになり、野口英世の家の壁もおち、家の辺りにも爆発のための灰が降ってきたとのことです。 11歳という年齢は、こうした大事件を冷静に受け止めるには若すぎます。 現代の言葉で言えば、心的外傷後ストレス障害(Post-traumatic Stress Disorder、PTSD)を発症した人もいたことでしょう。 野口英世自身が磐梯山の爆発体験について語っている資料はないので、彼がこの体験でどんな影響を受けたかは正確には分かりません。

   しかし、世間にはこうしたことに関心を抱く人はいるもののようです。 野口英世記念会がまとめた野口英世の伝記のうち、少年期を扱った分冊にはちゃんと磐梯山の爆発が野口英世の心に与えた影響について書いてあるのです。 無論これは書いた人が想像したものですが、なるほどと思わせる記述です。 そこには「磐梯山の噴火を体験した後の英世には『心の中に噴火』が起きた」と書かれているのです。 どういうことかというと、磐梯山の噴火当時、野口英世は翁島の小学校に通っていたのですが、丁度その頃から成績がぐんと上がり抜群の成績で優等賞をとるまでになったというのです。 その結果、猪苗代高等小学校へ進むことになり、会津若松へ出て医術の勉強をする契機となったという訳です。 「遠き落日」を読まれた方は、野口英世が身勝手な程に野心と向上心に燃えて、成長していった人物であることを御承知でしょう。 そうした素質を持っていた野口英世が、少し成績の良い尋常小学校の児童から多感な思春期へと向かう頃に磐梯山爆発があった訳で、爆発が野口英世の誇大的な野心に火をつけたという考察は、野口英世の人柄を踏まえた鋭い考察であると思われ、私はなるほどと感心した次第です。

 さて、考えてみればいつもの如くに新年が来るだけのことですが、新世紀を迎えるというと何かいつもと違った特別な体験をしているようで、私達の心に不思議な気分を醸しだします。 これを新たな向上につなげるべく、磐梯山爆発に遭遇した体験が野口英世の心に残したように、私達も世紀の変わり目に遭遇するという体験を活かしたいものであると考えています。



<HP管理者より一言>
 野口英世と磐梯山の噴火、どちらも知っているつもりでしたが、同時代だったとは思いもよりませんでした。丹羽先生のお言葉のように、21世紀を迎えたという感慨を患者様の診療にも生かしていきたいと考えております。


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安寿と厨子王も詣でた小倉寺の千手観音

 新世紀、新年の繁栄と安寧を願う祈りを皆様それぞれに捧げておられることと存じますが、私は自分が現在住んでいる福島市渡利地区にあります「小倉寺千手観音」に出向くつもりでおります。 この千手観音は紀元817年頃に当時「大蔵寺」と言われた東北鎮護のために作られたお寺に祀られたものと言われており、高さ3m余りの大きな古い観音像です。 左右に各々11本の腕を持ち、やはり11の菩薩の面が頭周囲を囲み、さらに頭頂部には如来像を備えています。 11の菩薩面のうち正面は慈悲相、左右が憤怒相で愛と怒りを象徴していると言われます。
(*写真を御参照ください)。

  実は、この千手観音には皆様よく御存知の「安寿と厨子王」と厨子王」も今から約1000年前の紀元1016年に参拝しているのです。 無論、「安寿と厨子王」という個人名は17世紀に成立した浄瑠璃などでの命名であり、本名は万珠と千勝といいます。「安寿と厨子王」の物語が広く知られる契機となったのは森鴎外の小説「山椒大夫」(1915年、中央公論)からと思われますが、鴎外の「山椒大夫」のどこを読んでも物語が福島の伝説由来であることを示す土地名は出てきませんから、読者は架空の物語と受け取り、ましてや福島に関連するとも思いません。 ところが同年に鴎外が書いた「歴史其のままと歴史離れ」(1915年、雑誌「心の花」)というエッセーを読むと、「わたくしは昔手に取った儘で棄てた一幕物の企を、今単篇小説に蘇らせようと思ひ立った」として、「昔陸奥に磐城判官政氏と云ふ人があった。 永保元年の冬罪があって筑紫安楽寺へ流された。 妻は二人の子を連れて、岩代の信夫郡にいた。 二人の子は姉をあんじゅと云ひ、弟をつし王と云ふ」と記しています。 無論、磐城は現在の「いわき市」であり、信夫郡は福島市です。 鴎外が「山椒大夫」の底本とした浄瑠璃などの「安寿と厨子王」のストーリーは次のような史実を物語化したものです。

 いわき市小浜町に愛宕神社がありますがその神社の社記「鏡ヶ丘由来記」に「安寿と厨子王」の物語のオリジナル・ストーリーがあります。 それによると、安寿(実際は万珠)と厨子王(実際は千勝)の父は二代目磐城判官で平政道といい、母の名は不詳ですが信夫の里の出身と言われます。 政道の父(一代目磐城判官)は政氏で、政氏は「皇居の警衛の手落ち」を咎められて999年に筑紫安楽寺へと流罪にされます(「安寿と厨子王」では父政道が流罪にされると変えられています)。 政氏流罪の後、それまで妻の実家の信夫の里にある「つばき舘」で万珠・千勝と暮らしていた政氏の長男政道は磐城へ戻り二代目判官になりますが、姉婿との同族間の争いにより1016年に討たれてしまいます。 政道の妻、万珠、千勝は信夫の里にある「つばき舘」に逃れ、その折りに「つばき舘」に近い大蔵寺の「千手観音」に家族の平安を祈ったわけです。 万珠(安寿)と千勝(厨子王)が祈ったのは祀られてから200年を経た当時の千手観音でしたから、今よりも色鮮やかであったものと想像されます。

  万珠(安寿)と千勝(厨子王)が住んだ信夫の里の「つばき舘」は、私の住居から歩いて10分程の所にある阿武隈川沿いの弁天山にあり、そこから山道を尾根伝いに歩くと15分ほどで大蔵寺に至ります。 1000年ほど前に安寿と厨子王も祈りを捧げた千手観音と思えば、世紀を超えた祈りも届きそうですから、新世紀を迎えた新たな気持ちで私もこの観音様に21世紀の平安を祈りたいと考えている次第です。 


<HP管理者より一言>
 今回、千手観音がある大蔵寺のご住職様より、写真掲載のご許可をいただきました。厚く御礼申し上げます。
 福島に住んで19年になりますが、私も初めて千手観音を見てきました。その姿は思ったよりも大きく、また所々が金色に輝き、当時を偲ばせるものがありました。福島に住んでいても行ったことがない方が多いかと思います。ぜひ足を運んでみてください。


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福島の女性(ひと):高村智恵子の夢(ゆめ)と病気(やまい)

 はじめに
 福島と言えば「野口英世」「磐梯山」「猪苗代湖」が連想される方が多いでしょう。 それだけではありません。 福島県北部の福島市や安達郡だけとっても、「源氏物語」「安寿と厨子王」「謡曲・安達が原」など古くからの歴史文化につながるロマンの地でもあるのです。 ロマンと言えば「智恵子抄」で知られる「高村智恵子」の物語はその一つです。

 智恵子抄
 昭和16年に刊行された「智恵子抄」は詩人・彫刻家である高村光太郎が、その妻智恵子と自分との心の交流を詠った人気の詩集です。 妻の名前が智恵子で、「智恵子抄」により光太郎と智恵子は「純愛に生きた」二人として有名になりました。

 長沼智恵子さん
 その智恵子は旧姓を長沼智恵子と言い、福島市の南隣の安達町で明治19年に生まれました。 今,彼女の生家跡には智恵子記念館が建てられており、52歳で彼女が亡くなる前に彼女が作っていた美しい切り絵などが展示されています。
 智恵子の生家は造り酒屋で、彼女は裕福な家に育ったわけです。 向上心の強い彼女は当時の女性には珍しく日本女子大学に進学しました。 同女子大在学中に絵を描くようになった彼女は、卒業後に本格的に絵の勉強を始めました。 女子大時代に交流のあった平塚らいちょうが新しい女性運動の雑誌「青鞜」を発行した時、らいちょうに頼まれた智恵子が「青鞜」第1号の表紙絵を描いたことは良く知られています。  その絵画を通して智恵子は光太郎と知り合いました。
 そして、画家と彫刻家という芸術家同士の結婚に至ったのが大正3年で智恵子28歳の時でした。

 智恵子の夢
 智恵子は光太郎の傍に居ることを力として、有名な展覧会に入賞し画家として大成する夢を持ちました。 智恵子は光太郎を芸術家として尊敬していましたが、逆に光太郎から尊敬されるようになりたいという夢を持っていたものと思われます。 智恵子にとってみると二人の間柄は、成長を刺激しあいながらも競争しあう対等な関係であったと思われます。 一方、光太郎にとっての智恵子は、子供のような純真さを持つ不思議な人であり、保護・愛玩の対象であったように思われます。

 智恵子の病気
 智恵子は日本女子大を卒業した頃に肋膜炎(結核)に罹りました。 52歳で亡くなった死因は粟粒結核と言われます。 結核は智恵子が画家として力を振るう妨げとなっていたようで不幸なことです。 もう一方、智恵子は45歳頃から幻覚妄想、精神運動興奮、時に著しい退行を示す精神病に罹ります。 日本医大の初代精神医学教授であった斉藤玉男先生が開かれた大井町のゼームス坂病院にて、昭和13年に亡くなるまで入院治療を受けました。 診断は統合失調症でした。 遅い発病、赤児同然の退行した状態と綺麗な色彩の切り絵を作ることのできる状態など変化にとんだ病像は非定型的だと思われます。
 遅い発病の分、智恵子の発病には明確な心因が見受けられます。 一つは実家の破産と没落で昭和4年(43歳時)のことです。 もう一つは画家として光太郎から尊敬されるようになりたいという夢が破れたことだと思われます。

  おわりに
 「智恵子抄」は智恵子の死後に光太郎が書いた智恵子との心の交流日記ですが、光太郎にとって智恵子のあどけなさ、純真さが魅力であったことが示されているものの、画家としての力への尊敬は見えてきません。 光太郎は智恵子にとって越えられない壁でした。 亡くなる前、ゼームス坂病院入院中に千代紙や広告の切れ端を使って智恵子が作った切り絵は色彩の美しい綺麗な作品です。 智恵子は光太郎に見せるためにだけ切り絵を作ったようです。 回診の時に主治医に見せることを拒んでいる程です。 光太郎は切り絵を見てとても良くできていると感心し智恵子を誉めています。 智恵子にとっては切り絵により、画家として光太郎から尊敬されるようになりたいという夢がやっと叶ったのでした。


<HP管理者より一言>
 高村智恵子のふるさとである安達町は、平成の大合併により、平成17年12月1日より、二本松市安達町となりました。智恵子記念館は東北自動車道二本松インターを降りてすぐです。ぜひ一度訪れてみてください。

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